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2012/04/26

311 そこにある言葉と風景、目には写らないこと。


浜辺に近くに立地している中浜小学校の壁面には、
2階建ての校舎の屋根ぎりぎりの所まで大津波が押し寄せた印が。
奇跡的に全校生徒は屋上に避難して、全員が無事だったとの事。
屋上の物置の中で、震災後の夜を身を寄せ合ってしのいだという。





2012年3月11日、東日本大震災からちょうど1年にあたるこの日、私は宮城県山元町を訪れていました。この1年間で私自身にとって、それまでなんのゆかりもなかったこの地に、何度となく訪れている事を思うと何か不思議な思いもあります。
この地に限らず、震災の被害を受けた地域には、あまりにも多くの事を失った反面で、震災前まで訪れることがなかった私のような多くの人が被災地に入られて、ボランティア活動をされてきました。そのような人達と当の地に暮らす人達の間には、新たな出会いと友情が生まれた1年でもあった事と思います。
現代の日本に生きる私達にとっては、この未曾有の災害を前に、被災された方々の全ての心の傷は未だ癒えないものの、人と人との支え合う精神の大切さを、むしろ外部から訪れた私達が見せつけられて学ばされてきた1年でもあったのです。

震災で亡くなられた方々にとって、遺族の方々にとって、一周忌にあたるこの日を、私が出会う事がなかった方たちへの追悼を捧げたいという思いもあり、私は、この日にこの場所へ訪れたのでありました。

昨日の山下中学校の卒業写真撮影を終えて、いつも山元町でお世話になっているきみよおばあちゃんのお宅に泊めて頂いて、この日のお昼からの徳本寺での被災者家族合同の法事が始まる前に、1年前に津波被害を受けた場所を見ておきたいと思い、私は車を走らせたのです。




中浜小学校2階からの眺め。
震災前には、潮風を感じながら美しい海が見渡せたことでしょう。
この場所に元気な子供たちの笑い声が響いていた。




昨日まで降っていた雪も小雨に変わったものの、冷たい風が身を切り、一晩雪にさらされて冷えきってしまった車内をまずヒーターで暖めて、フロントガラスにまとわりつく小雨をワイパーで除けながら、地震、津波で破壊されてしまったアスファルト道を行きます。
震災から2ヶ月後の5月に初めてここを訪れた時には、まだ、自衛隊の災害援助チームが瓦礫の撤去作業、行方不明者の捜索を行っており、今は、その努力の甲斐あって、その時に比べると瓦礫が撤去された分、道筋は奇麗に片付けられた印象があります。しかし、眺望が良くなった分、ぬぐい去ることができない傷の残痕が露になり、改めて広大な地域の甚大な被害を実感させられます。
この日は、遺族の方達が仏花を持って、一周忌のお参りをされる姿も見かけました。今は、広大な見晴らしとなったこの地を数人の人が束になって、元あった家の敷地と思われる場所で、お祈りをされる小さな人影を遠くに眺める事ができました。

昨夜のきみよおばあちゃんの言葉が蘇ります。
度々きみよさん宅を訪れている私ときみよさん家族との間には、感謝するべく、友情のようなものが芽生えてきており、いつも宿泊させて頂く際には、ご家族や親族の方達と一緒にホットプレートを囲みながらビールを飲んだり、テレビを観たりしながら歓談をするのです。
もちろん、私へのお気遣いとおもてなしと承知をしながらも、そういった事もあり、今回私はビール1ケースを持参してお邪魔をしたのですが、そうして過ごす時間、皆さんが楽しそうにしているひとときが私は大好きで、ざっくばらんな談笑の中で、私が聞きたい事や皆さんが話したい事が一致して行くという自然なお付き合いの流れが生まれているように感じているのです。
この夜、きみよさんのひ孫さん、きららちゃんが保育園のバスでの避難中、津波に流されて亡くなった一周忌を迎える前の晩でもあったのです。

「復興とか、がんばろうとか、絆とか、皆さんは言うけど、きららは決して帰ってこないんだよ。。。」

ふとこぼれた、きみよさんの本音であったのかもしれません。いや、本音というよりも心の叫びに近い言葉であったのかもしれません。他の言葉では表現しようのない、限りなく透き通った、たった一人の人だけしか発する事ができない滴り落ちたしずくのような言葉。
このきみよさんが、ふと発した言葉は、深く私の心に今も留まり続けています。いくら忘却の彼方へと悲しみを押しやっても、それを乗り越えて行こうとしても、深い悲しみを受け入れた人間の感情には、溶け出す事もない氷河に閉じ込められた太古の生物達のように、永遠に傍目に留まることのない言葉が潜んでいるのかもしれません。わずかに溶けた氷の雫のきらめきだけが、心の奥深くにともる感情を言い表すことができる唯一の術なのかもしれません。




中浜小学校裏手の墓地。津波で倒された墓碑に花が添えられていました。





私が、中浜小学校付近に通りかかった時、校舎内に人が何人かいる事に気がついたので、車を停めて私も中に入ってみる事にしました。
中に入ってみると、数人の男女の声が、この場所を懐かしむような、または再会を喜びあうような、この惨状の傷跡をあらわにした校舎には少し不釣り合いな楽しそうな話し声が聞こえてきました。現在の校舎の内部は、おそらく散乱していたであろう瓦礫は撤去され、床面は清掃され、本来は立ち入りはできないようなのですが、難なく校舎内を歩く事ができました。もちろん至る所に津波の傷跡はまだ生々しく残されているのですが。
そこで出会った一人の方に、声をかけてお話を聞いてみた所、1年前までこの小学校で教鞭を執られていた先生達の集まりで、閉校となってしまった震災後は、それぞれ他の学校へ移動となり、この日は、その日を顧みるという主旨で集まられたとの事でした。
ここまで壊滅的な被害がありながら、この小学校の教師も児童も全員無事であったことは奇跡的でもあり、幸運も作用したのでしょう。屋上に避難した全校生は、ぎりぎりの高さまで浸水した津波に怯えながら、屋上の物置内で身を寄せ合い暖をとってその夜をしのいだのです。
1年前のその光景を思い浮かべて、その校舎内にいざ立ってみると、そこにいた全員の児童と教師の不安、または、安否が気遣われる保護者の方達の不安がまざまざと蘇るようでもあります。
ただ、そこで居合わせた、教師の方達の様子は、最初校舎に足を踏み入れた時に私が感じた通り、とても和やかにも感じられ、やはり教師の方達にとっても学び舎とは心のふるさとなのでしょう。
唐突な私の問いかけにも、にこやかに応じては頂けたのですが、やんわりと、「普段は立ち入り禁止なのです。」と釘をさされたので、数枚だけ写真を撮影させて頂いて退却する事に致しました。





2階教室と廊下。
枠だけ残されたこの2階廊下の窓からの眺望は、山元町の海側全域に津波が浸水したことが分かる。

中浜小学校外観。校庭は車の集積所となっておりました。
5月に訪れた時よりも、町内に散乱していた漂流した車両が集められた結果、
台数が増えて敷地はいっぱいになっておりました。







写真によるチャリティ支援プロジェクトとして「始まりの写真」プロジェクトを立ち上げて、その活動を通して、私は、被災地で生活をされる方々の日常に触れる機会を得て参りました。親しくなった多くの被災者の方達が、震災前の町の姿や、生活を語って私に聞かせて下さいました。また、この震災後の多大な苦労話もしかり。
この1年間、私を前へと押し進めてきたのは、こういった人達の何かを伝えたいという強い想いをひしひしと感じてきていたからだと思っております。この<何かを伝えたい>と思う感覚こそが、これまでの私のこの活動の核をなしていたと言っても過言ではないのです。
ただ、当然ながら、実際1年前にこの地で起こった事、または、それ以前にそこにあった日常には、私はどうやっても身を以て触れる事はできません。情報として収集する事は可能でもあり、または、過去の写真等から想像を膨らませることもできるかもしれません。しかし、その想像力にだけ頼った行いには、時として部品が失われたお粗末なプラモデルのような感覚に私を陥らされるものでもあり、失われた過去と向き合いながら、前を向いていくという感覚だけでは消化しきれない隔たりがそこにはある事を認めざるおえない事も確かなのです。

こうして、311から1年たったこの日に災害地に立ってみて改めて思う事を申し上げてみたいと思います。 
確かに多くの人の命や家、財産、仕事等様々なものが失われて、復興に向けて様々な努力が今までもこれからもなされています。こういった復興への営みは本当に素晴らしい事であり、更なる継続した努力が必要である事も深く認識しており、もっと広く認知されるべきだとも強く思っております。
しかし、先のきみよさんの言葉のように、多くの被災地の人たちが抱え持つ個人の悲しみに直面した時、私たちはどう向き合ったらいいのか躊躇されてしまうという局面もあるのです。個人主義的習慣の強い都会暮らしの私にとって、または、他者との関わりが薄くなってしまったと言われて久しい現代の日本人にとって、個人の悲しみをどう共有していいのか、戸惑いつつも、目をつぶって通り過ぎる事ができない感情を喚起させられてしまうのです。繊細ながら力がある心の言葉。悲惨な光景となりながらも優しさを携えた心の風景。被災地と呼ばれる地で暮らす人の目には、震災前の光景が心に宿り、今でも温かなまなざしを注いでいるのです。このことを身を以て知る事となった311から1年後のこの日は、「始まりの写真」プロジェクトのこれからを思索する私にとっても一つの実りをもたらしてくれたように感じてもいるのです。

「あの日を忘れない」この言葉は、311を思い出す一つのキャッチフレーズとして語り継がれていくことでしょう。その前に、「あの日を忘れられない」多くの人がいる事をまず私達は思い出さなくてはいけないと感じさせられたのです。








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